「道からそれた人たち」 5.27 出エジ32:1〜20、ペトロU3:8〜9
神は、私たちが救いに至るための道を、私たちの祈りに聞きながら、整え、導こうとされます。
イスラエルの民が金で牛の像を作り、それにひれ伏し、神さまに背きました。神は怒り、
滅ぼそうとされました。当然のことです。
しかし、モーセは必死で願いました。「あなたの民ではないですか。もし滅ぼしてしまえば、
先祖に対してなされた約束はどうなるのですか」と。これはとても調子のいい申し出です。
民の背きの深さを目の当たりにしていないからこそ語れた言葉でした。
ところが、このモーセの祈りによって、神は滅ぼすことを思い直されたというのです。
これは、神がモーセに丸め込まれたというのではありません。神がモーセの訴えをどれほど
真剣に聞き、 受け止めてくださったかということです。神は、真実を見極めきっていない、
つたない人間の言葉をも聞き、それを重んじながらことを進めようとされます。
勿論、救いという最終地点は堅く据えながらではありますが、
そこに至る道は、神が勝手に
用意されるというよりも、人と共に築きあげようとされるのです。
私たちは、祈りつつ事を進めることを重んじます。また神ご自身が、祈ることを求めておられます。
それは、神が祈りに込められている私たちの思いを重んじながら、私たちを導こうとされるからです。
私たちが祈りのなかで語ることは、真実を見極めた言葉ではないことがほとんどでしょう。
しかし、神は私たちがただ黙っているよりも、神に祈りつつことを進めることを願っておられます。
「あなたが救いに至る道を、私が勝手に備えるのでなく、あなたと築きあげていきたい」と願って
おられます。
だからつたない言葉であっても祈るのです。
私たちが導かれるというのは、子供が大人である神に無理やり手を引っ張られるようにして導かれる
のではありません。親が、子供のたわいのない言葉を聞き、それに応え、楽しみながら手を引いていくように
神は私たちの言葉を聞きながら導かれます。